それぞれのキセキ



体が心地よい空気に包まれている。
ほのかに甘い香りと、柔らかな温もり。
まどろむ意識は放っておくと白い光に溶け込んでいきそうになる。
ふと、唇に何かが触れた感触がして、エルザは重いまぶたをこじ開けた。
「あら、おめざめですか?」
つい、と唇を撫でる白い指先に薄い桃色の花弁が見えた。
ぼんやりとする視界の向こうでその指の主、クラリーチェがニコニコと笑っている。
指先でひらひらと動く花弁に、エルザの意識は急速に覚醒した。
「あれっ……私、寝て……?」
思わず横たえていた身を起こすと、僅かにクラリーチェが笑顔のまま眉根を寄せた気がした。
あたりを見回す動きにつられ、頭の上に乗っていたらしい花弁がひらひらと落ちてくる。
「ええ、ぐっすり眠ってらっしゃいましたわ」
残った花弁を払いのけてくれながらクラリーチェが言う。
「起こしてくれればよかったのに……」
「エルザの寝顔があまりにも可愛らしくて、つい♪」
恥ずかしげも無く言うクラリーチェに、エルザは顔を赤らめてそっぽを向いた。
後頭に残る柔らかな感触を思い出すに、自分はクラリーチェの膝枕で眠っていたのだろう。
どうしてそうなったのかの経緯は思い出せないが、今自分がここに居る理由は覚えている。
自分の誕生日会を兼ねたお花見――
その準備のために、他のメンバーより先にここへ来たのだ。
主役なのだから準備は他のメンバーに任せろというペトラの言葉に、それだと落ち着かないからせめて場所取りだけでも、と。

それなのにこの体たらく。ペトラに見つかったら皮肉の一つも言われてしかるべきだろう。
まったく、困ったものだ。
「どれくらい眠ってたのかな」
「15分も経っていませんよ。この陽気ですし、無理もないですわ」
何故膝枕をしてもらうことにまでなったのか気になったが、とりあえず聞かないでおく。
エルザはそれよりも気になることがあった。
「皆、遅いね」
自分達がここに来て少なくとも20分は経っているはずだ。それから眠ってしまって15分。
具体的に何時から始めると決まっていたわけではないが、弁当等の用意はあらかた揃っていたはずだ。
それから30分以上、準備にかかるとは思えない。
移動時間としても少々考えにくい。なにせここはローゼンベルク学園の敷地内。
普段自分達が控えている理事邸とさして離れていないのだから。
「何かあったのかな」
「大丈夫ですよ。きっとペトラが気を利かせてくれているだけでしょう」
「え?」
クラリーチェの言葉にエルザは首をかしげたが、クラリーチェはそれ以上何も言わなかった。
しかしエルザの不安は晴れない。
もしかしたら……と、心に引っかかる事があるのだ。

ペトラが自分達と行動を共にするようになってから暫く経つ。その間も互いの誕生日を祝ったりしてきた。
花見を兼ねているのは今年が初めてだが、今日、自分を祝ってくれるメンバーには新しい顔――ヴァイスやシャルラッハロート、それにえこがいる。
最初は、別日での花見だけの予定だった。
その計画を聞きつけたヴァイスとえこがエルザの誕生日を知り、それならお祝いもと申し出てくれた。
ペトラは少し考えていたが結局二人の強い希望もあり、日程をずらして花見を兼ねた誕生日祝いをすることになった。
エルザには、それがありがたくも少し複雑だ。
ヴァイス、シャルラッハロート、えこの三人には誕生日と言うものがない。
いや、あるにはあるのだろうが、記憶に残っていないのだ。
だから三人には「誕生祝い」というお祝い事がそもそも存在しない。
それなのに、自分はこんなふうに祝ってもらって……と、思うのだ。
たとえそれが、ヴァイスやえこからの申し出だとしても。
もしかしたらそのあたりが原因で何かあり、皆まだここに来ていないのかもしれない。
「……ねえ、クラリス」
「なんです?」
膝を抱えた手に思わず力が入る。
「私、もの凄く贅沢な事をしているんじゃないかな」
つぶやくように言ったエルザにクラリーチェは首を傾げる。
しかしすぐにその不安に思い至ったのか、うつむいたエルザの顔を覗き込んで微笑んだ。
「また、考えすぎの虫さんですの?」
「そんなんじゃ……」
「貴女の考えてる事はなーんとなく、わかりますけれど――」
クラリーチェが唇に指を当てて何かを考える素振りをしたその時、二人の頭上に影が差した。
「お待たせしました、二人とも」
顔を上げればそこにペトラ達がいた。気配にまったく気付かなかったエルザは少し面食らう。
「エルザ殿、この度はお誕生日、おめでとうございます」
「エルザおねーちゃん、おめでとうなの!」
「おめでとう、エルザ。僕からもお祝いの言葉を贈らせてもらうよ」
続けざまにお祝いの言葉をかけられては、不安があろうと嬉しいものだ。
それに暗い顔をして答えるのは失礼だろうと、エルザは笑顔になり感謝の言葉を返した。

「さあ、遅くなりましたが始めましょう」
ペトラがそう告げると、側に控えていたノーラとローサがてきぱきと準備を始める。
エルザとクラリーチェが広げていたシートの側に簡易テーブルを設置され、料理がずらりと並べられて行く。
花見というには豪華すぎるような者の数々にエルザは思わず面食らった。
気がつけばヴァイスとクラリーチェはそれを手伝っている。
えこも手伝おうとしているのだがさすがに背が届かず、カズにあやされていた。
その様子はとても楽しそうで、エルザの先程の不安など入り込む余地がない。

ただ一人、

「……」

シャルラッハロートだけは沈黙していたが。

「……ふん」
「シャルラッハロート?」
シャルラッハロートが光景から目を逸らしたのに気づいたヴァイスが声を掛ける。
「どうした? 気分でも悪いのか」
「良くはないかも。誕生日なんてよく分からないし」
「……」
やはり、とエルザは息を飲む。
「なんでそんなに楽しそうなのか、祝ってやらなくちゃならないのかもよくわかんない」
「シャルラッハロート……」
「いいんだ、ヴァイス」
遠慮のない言葉を咎めようとしたヴァイスを制し、エルザは無理矢理微笑んでみせた。
「ごめん、シャルラッハロート」
「……別に、わかんないだけだし」
にべもないシャルラッハロートの態度に場の空気が沈みかける。
こうなることは予想出来た、だからペトラも少し迷ったのだろう。
このままでは折角の食事も美味しく食べることなど出来ない。
事情が呑み込めていないえこ以外に、なんともいえない空気が流れかけたその時。
「シャルラッハロート」
穏やかに、諭すように。
その微笑と同じ位の柔らかさを持った声がその沈黙を包み込んだ。
「人――この場合、私達が一般的な"人間"とはいえないことは置いておきましょう」
皆の注目を浴びたクラリーチェは頬を指で叩く。
「あらあら、そんなに見つめられては照れちゃいますわ♪ まあとにかく、人は、形の見えないものをどうにか見ようとする、愚かで賢い生き物なんですの」
「意味わかんない」
「時の流れは人が作りしもの、それがなければ私達は何を道標に日々を過ごしていいのか分からない。
時間、月日、西暦……全て人が自分達が生きるために用意したもの。けれどそれだけでは足りなくて、更に区切りをつけて、その時のためにそれまでを生きる。そしてその区切りには、なにか特別な事をする」
クラリーチェの突然の講釈に、シャルラッハロートだけでなくエルザやペトラも少し面食らっていた。
そんな皆の様子に構わずクラリーチェは続ける。
「そうして、人は一つの幸せを噛みしめますの。区切りを迎えた本人だけではなく、その側に在れた友人や恋人達と共に」
「……だって、私にはそんな区切りなんて」
「別にね、誕生日じゃなくたっていいんですのよ? そうですわねえ、例えば貴女なら……家族記念日なんていかがでしょう?」
その言葉にえこが顔を輝かせた。カズの手の中で小さな両腕を精一杯伸ばし、嬉しそうにシャルラッハロートへ笑顔を向ける。
「しろいおねーちゃんとあかいおねーちゃん、えことカズにいちゃんのかぞくなの!」
その様子にクラリーチェは満足げに頷く。
「えぇ、その日がいつかは貴女達で決めたらいいんですの。三人で同じ日を一緒に祝うことができますわ」
「三人で……一緒……家族記念日……」
クラリーチェから視線を逸らしたシャルラッハロートの肩をヴァイスが叩く。
はっとしてそちらを見やったシャルラッハロートは、ヴァイスの笑顔につられてかすかに微笑んだ。
「生まれてきてくださってありがとう、家族になってくれてありがとう、ほら、なんでもいいんですの。だから、今日はエルザの誕生日を祝うんですわ。私はエルザが生まれてきてくださってとても嬉しい、その区切りを共に迎えられたことが嬉しい。できれば、皆で祝えたらきっとエルザも嬉しい……そうでしょう? エルザ」
「え? あ……うん、そうだね。それは凄く、幸せだと思う」
不意に言葉の矛先を向けられて戸惑ったが、エルザは素直に心の中を告げる。
自分の為に誰かがお祝いをしてくれること、その場に自分がいられること。
それはなんて幸せなことなのだろうと、心から思う。
「……そういうことなら、祝ってあげてもいいわよ」
シャルラッハロートはぶっきらぼうにそういうと、手近な椅子を引いて座り込む。
その頬が僅かに紅くなっているように見えた。
エルザはその姿に安堵し目を細める。空気はいつの間にか元の和やかな雰囲気を取り戻していた。
そのきっかけとなった隣の大切な人にエルザは微笑みかける。
「ありがとう、クラリス」
クラリーチェにだけ聞こえるように小さく呟いて、その返事の代わりにいつも以上の笑顔を受け取った。

「さあ、料理が冷めてしまいますわ」
ペトラが皆に着席を促す。数多くの料理はテーブルだけでなくシートの上にも並べられた。
皆が席についたことを確認して、ペトラがグラスを手にとる。
「それでは」
皆が、それぞれのグラスを手にとりそれに倣った。
「エルザ、貴女の誕生日を祝って」
「ありがとう、皆」
小さく掲げられたグラスが光を反射する。
「乾杯!」
澄んだ音が春風に乗って響いていく。
エルザは視界の隅に浮かんだ雫を、視界を覆う霞みと共にそっと払った。



「エルザ、何飲みます?」
テーブルの上のメインディッシュがあらかた片付けられた頃、好物のあんぱん片手に談笑しているエルザへクラリーチェが声をかけた。
「あ、クラリス、ええとそれじゃあ……牛乳なんてあるかな」
「あらあらまあまあ……いえ、合うのはわかりますけどね、ちょっとお待ちくださいな」
テーブルの側に控えているローサから牛乳を注いだグラスを受け取ると、足早にエルザの元へ戻ってくる。
「はいどうぞ、エルザ」
「ありがとう、クラリス」
そんな二人のやりとりをペトラが優雅に紅茶を口にしながら見つめている。
「エルザ、貴女、食事の直後によくそんなものが食べられますわね……」
「え? いやだって、折角クラリスが用意してくれたプレゼントだから」
「別に今食べなくてもよいでしょう」
「ま、まあそうなんだけどね、あまりにも美味しそうだったから、つい」
あんぱんは別腹だしね、と続けながらとても幸せそうにあんぱんを頬張るエルザに、ペトラはそれ以上何も言わなかった。
「今日の紅茶は格別ですわね。たまには屋外でお茶も良いものですわ」
「うん、解るよペトラ。こうして皆で外で楽しく過ごせると、あんぱんと牛乳がいつも以上に美味しく感じる」
「おそとでのむオレンジジュース、おいしーの!」
子供用のコップでオレンジジュースを飲んでいたえこが負けじとコップを掲げて見せる。
中身が溢れそうになり、カズが慌ててえこの小さな手を押さえた。
その隣で、ヴァイスが微笑みながらグラスを傾けている。
「ヴァイス、それは」
その中身を見たペトラが眉をひそめる。
グラスの中で揺れるのは無味無臭無色透明、正真正銘の水(エビアン)である。
「貴女、また水を飲んでいましたの?」
「はっ! 機関を出てから様々な水を試させていただいています。水も一つ一つ味わいが違い……その種類に圧倒されるばかりであります」
「……まあ、良いでしょう。良質な水は体にいいのは確かですし、貴女の好物を否定するつもりもありません。ですが、また一般的な口調を忘れていますわよ、注意なさい」
「はっ! 尽力する次第であります!」
「……あはは。なかなか抜けないよね、うん、わかるよ」
ヴァイスに染み付いた軍人口調はお墨付きだ。一般社会への復帰を望むペトラ達から見れば、どうにかそれを直してやりたいところなのだが、長年続けていた習慣はそうそう抜けるものでもない。
徐々に徐々に、ゆっくりと。最終的に彼女らが普通の幸せに浸れれば、それでいいと皆思っている。

「ところでクラリスは何を飲んでるんだい?」
隣で余り見慣れない一風変わった器――湯呑を傾けているクラリーチェにエルザが問う。
「ええ、番茶を♪」
「……渋いね」
ふわりと立ち上る湯気が良い香りを運んでくる。
余り飲んだことが無い緑の液体を、エルザは思わずのぞき込んだ。
「意外といけますの♪ この渋みとかすかな甘味がたまりませんわ〜」
「あぁ、そういえば和菓子によく合うお茶とか、舞織から紹介された事があったなぁ……」
「……きっとあんぱんにはあいませんわ、絶対、絶対相性最悪ですわ〜っ!」
「え、ええっ!?」
「はぁ……放っておきなさい、エルザ」
いつものやり取りにペトラは呆れたように言うと、紅茶のお代わりをローサに頼んだ。
「シャルラッハロート、お前は何を飲んでいるんだ?」
「何も飲んでない」
ヴァイスの隣に座っているシャルラッハロートは、手の中で弄んでいたグラスを傾けてみせた。
確かにそこには何も注がれていない。いつから空なのかはよくわからなかったが。
「何か飲むか? シャルラッハロートは何が好きなんだ?」
「別に何でも。……ソフィーが飲ませてくれるなら、なんだって美味しい」
「?」
シャルラッハロートの言葉をヴァイスは頭の中で反芻する。
やがてひとつの結論にいたったのか、自分の側においてあったピッチャーを手にとった。
そして、シャルラッハロートのグラスに波々と水を注ぐ。
「これでいいのか?」
「うん、まあ……これでもいいかな、ありがと、ソフィー」
「……? これが最善の策ではなかったのか?」
シャルラッハロートの反応に引っ掛かりを覚えたのか、ヴァイスはピッチャーとグラスとシャルラッハロートを順番に見つめ考える。
しかしシャルラッハロートの口から直接好みの飲み物が聞けたわけではない、それ以上は自分にはわかりかねると判断したらしい。
グラスを傾けるシャルラッハロートにすまなさそうな顔を向けると、手にしていたピッチャーを握り直した。
「すまない、シャルラッハロート。私はまだ知識が浅く……お前の好物を悟ってやることができない。だが、私の好物でよければいくらでも分ける、遠慮なく飲んでくれ」
言いながら、シャルラッハロートのグラスの中身が消えれば即次を注げるよう構えるのであった。
「……う〜ん、シャルラッハロートも大変ですわねえ」
「そうだね、ヴァイスも大変そうだけど」
「シャルラッハロートの気持、私にはよーくわかりますわ。私もエルザが飲ませてくれるものがこの世で一番美味しい飲み物だと思いますの」
「え? クラリス、私にお茶入れて欲しかったのかい? うぅん、あんまり淹れたことが無いからうまくできるかわからないけど……なんならお代わりは私が用意するよ?」
エルザはローサにお茶の淹れ方を聞こうと席を立つ。
その背に向かってクラリーチェは寂しそうに体をくねらせた
。 「ああん、違いますのエルザ。私やシャルラッハロートが言っているのはつまり……」
「クラリス、それ以上続けると私の紅茶が更に紅に染まるでしょう、私は別に構いませんが」
「ああん、ペトラはわかってくれますのに、真に願う相手には届かないこの想い! 切ないですわ〜!」
「……悪いですわね、本命の相手ではなくて」
ペトラは砂糖を落とした紅茶をさっと混ぜ、にっこりとクラリーチェに微笑んでみせた。
ただし、目は笑っていなかったが。

「こーちゃ、あかいの! もっとあかいこーちゃ、おいしいの?」
「えこ、君はまだ知らなくて良い世界なんだよ。さあ、次は何を飲もうか?」
「うん! オレンジジュースのむの! またのむの!」
ローサはえこのコップにオレンジジュースを注ぎ、その小さな手に渡す。
「えこのオレンジジュースも、あかいの!」
らくがきがたくさん描かれた黄色いコップの中で、ほんのり赤いブラッドオレンジジュースが揺れていた。






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友人らと月二回締切りを設けてやっている企画(テーマの単語を決めて後は自由にそれぞれが書く)のいつだったかに書いた奴。
お題は「紅茶」でした。
しかし紅茶のSSとして書いたのは実は後半部分だけで、エルザの誕生日SSに繋げて書くつもりで書いたって言う。 だからと言うわけではないものの、微妙にgdgdしてしまった感があったりなかったり。
3になって祝ってくれる人は増えただろうけど、皆でお祝いとなると若干問題がありそうだなあと思い、
その辺がどうにか解決できたらなーと書いたSSでございました。