時を刻む針の音。
普段は気にならない時の音。
後数十分で今日という日は機能になって、明日が今日として訪れる。
その日を意識する事は、少しずつなくなっていたはずなのに。
その瞬間は、眠りに落ちながら迎えるのが通例になりつつあったのに。
「ねえクラリス」
半分よりほんの少しだけ膨らんだ白い月の光が、柔らかく差し込む暗い部屋。
その中で、エルザは隣のベッドに眠る相棒に呼びかけた。視界の隅でもぞもぞと影が動く。
「なんですか?」
「あ……起こしちゃったかい?」
思いがけず返ってきた返事に、エルザは戸惑いの声を上げた。
クラリーチェは自分よりも眠りが深く長い事が多い。だから返事は期待していなかったのだ。
独り言で終らせるつもりだったのに、相手の睡眠を妨げた事に後悔の念がこみ上げる。
しかしそれを察したのか、クラリーチェは柔らかな微笑をエルザに向けた。
「いいえ、今日はまだ起きてましたの」
「そう……ならよかった、ごめんね」
「悪い事はしていないんですから、謝らないでくださいな。それで、どうしました?」
「あ、うん……」
予想外の展開に、エルザは思わず言いよどむ。
返事があるとは思っていなかった、あまり聞いていいとも思えないものだったから。
抱いた疑問を改めて心の中で反芻してみると、それはとても罪深い内容のような気がした。
「エルザ?」
「あ、いや……その、なんでもないんだ」
「……あまり、なんでもないっていう顔でもないですわよ?」
「う」
長くを付き合ってきた相棒の目をごまかす事はできないらしい。
エルザは寝返りを打ち、高くない天井を見つめた。
やがて、観念したように一つ深い溜息をつき、
「ペトラが理想をかなえた時、私達はどうなるんだろうね」
隣に居るクラリーチェに聞こえるか聞こえないか位の小さな声で、そう言った。
この世の咎を浄化する――
人の持つ罪と、それを戒める為の罰。
人がこの世にある限り、それは恐らく消える事はない。
エルザとクラリーチェ、二人に課せられた宿命もまた同じ。
不安定な世界の歪みを正す――
それは二人の友人であり、上司であるペトラの掲げる理想。
それが示すものは定型ではない、ペトラは口には出さないが二人はちゃんと心得ている。
ペトラが目指す世界、誰もが平和に在れる世の中。二人もそれを望んでいる。
ではそこに、罪と罰は存在するのだろうか。
何より二人に課せられた宿命、それが消える事があるとして、
その時自分達がどうなるのか、二人は漠然とした、しかし覚悟にも似た予感を抱いていた。
「エルザ……」
考えても答えが出るような問題ではない。
恐らくそれはエルザもわかっているのだろう。
だからクラリーチェはいつものように笑顔で、その問いに答えようとした。
しかし、
「……エルザ?」
不意に聞こえた寝息に、クラリーチェは体を起こす。
「あらあらまぁまぁ」
問いを投げかけたエルザはいつしか、眠りに落ちていた。
その表情はあまり穏やかとはいえない。悩んだままに眠りに落ちてしまったのだろうか。
クラリーチェはベッドを降りると、少しだけすねたように口を尖らせる。
「んもう、自己完結さえしないままに眠らないで下さいな」
そういいながらそっと額に手を置くと、エルザの口から小さな吐息がこぼれ、その表情がほんの少しだけ和らいだ。
クラリーチェはそのまま何度かエルザを撫でた後、再び自分のベッドにもぐりこむ。
「……」
静かになった部屋の中で、クラリーチェは耳を澄ます。
時が、一際大きく刻まれる音がした。
「…………」
クラリーチェは口の中で小さく何かを呟くと、襲ってきた眠気に身を委ねる。
今年も、この瞬間にこの言葉を口にする事が出来た、と満足げに微笑みながら。
翌日。
休暇を与えられていたエルザとクラリーチェはペトラに呼ばれ、西欧聖霊庁の彼女の執務室を訪れていた。
「ペトラ、今日はありがとう」
目の前に並べられた豪華な食事。
食欲をそそる香に目を細めながら、エルザは笑顔でそう言った。
「本当なら私の屋敷まで連れて行きたいところですけれど」
「贅沢は言わないよ、ここでこうしてくれるだけで十分だから」
4/4、エルザ・ラ・コンティの誕生日。
普段はなにかにつけて忙しい三人は久方ぶりに休暇を取り、一年に一度のエルザの誕生日を祝っていた。
「なんだかくすぐったいな。誕生日なんてもう、手放しにおめでとうって言える日でもない気がするのに」
「あらあら、記念日はいつまで経っても記念日ですわ。いいじゃないですか」
照れくさそうに笑うエルザにクラリーチェはあいかわらず笑顔のまま。
ペトラは一通りの準備を済ませたローサを労うと、姿勢を正してエルザとクラリーチェに向き直る。
「さあ、遠慮は要りませんわ。今日という特別な日を一緒に祝いましょう」
そういって笑ったペトラに、エルザはほんの少しだけ胸に引っかかるものを感じた。
「特別な日、かあ……」
何気なく呟いたその言葉に、ペトラは違和感を感じて眉を顰めた。
昨夜のエルザを知るクラリーチェも、すこし困ったような表情でエルザを見る。
「……どうかしましたの、エルザ?」
「え? あ、いや、なんでもないんだ」
慌てて首を振るエルザに、ペトラはますます眉を顰める。
二人に比べれば付き合いの浅いペトラでも、エルザの性格はある程度把握している。
ペトラの聡明な頭脳は僅かな思考をめぐらせた後、幾つかの予想を打ち立てる。
それを言っていいものか、迷いはほんの一瞬。
「エルザ。貴女にとって誕生日は確かに複雑な日かもしれませんけれど」
こんな日でなければ言えない事もある。ペトラは目を丸くしているエルザを真っ直ぐと見つめ、
「貴女達が生まれて今ここに居る事を、私はとても嬉しく思います」
「ペトラ……」
思いがけない言葉に、エルザは言葉を詰まらせる。
昨夜の疑念が胸をよぎり、二つの罪悪感が胸をさいなんだ。
「……うん、ありがとう」
「……あまり、心は軽くなっていないようですわね」
「そんなこと、ないよ」
言葉とは裏腹に困ったような笑顔のエルザに対し、ペトラは小さく溜息をつく。
エルザは自分の態度がこの場を暗くして居る事に、ますますその表情を歪めていく。
沈黙は重苦しく、ふわりと舞った料理の香さえ重苦しく感じるような気がしたその時、
「……エルザ」
クラリーチェの声が、優しくその場に溶けた。
「先の事は先の事、ですわ」
「わかってる……わかってるんだ、そんな事。ただ……」
「ただ?」
「私達の存在が、ペトラにとって重荷に……なるんだと……した、ら」
そこまで言って、エルザははっとして顔を上げた。
直後、ペトラの強い視線に射抜かれてエルザは言葉を失う。
「ペ、ペト……」
「エルザ」
何か言わなければ、謝らなければと慌てるエルザをペトラはぴしゃりと遮った。
「どういうことなのか、言って御覧なさい」
「う……」
クラリーチェとは違った形で、しかしやはり誤魔化しを許さないその言葉はエルザを観念させるのに十分な力を持っていた。
「いや…その。時々、不安になるんだ」
視線を泳がせながらエルザはたどたどしく言葉を紡ぐ。
「私達が傍にいると言う事は、君の理想にたどりつけていない証明でもあるんじゃないか、って……」
「……っ」
自分達の存在は異質だ。それはどれほどペトラが自分の事を大切に想ってくれていようと変わらない。
本来なら自分達は、ペトラが正すべき歪みに近い存在なのだ、と。
ペトラは休息に上がった体温を落ち着かせる為、小さく数回深い呼吸を繰り返した。
それに気付いたのは、エルザの隣に座るクラリーチェだけだったが。
「…………エルザ」
出来る限り優しく、穏やかに。
ペトラは項垂れるエルザに声をかける。
「私はそんな事を指針に、未来を見据えているわけではありませんわ」
その言葉に、エルザははっと顔を上げた。
そこに在るのは真剣な面持ちで自分を見つめる大切な友の姿。
「例えこの身が老い、その時に貴女達がそこにいたとして……その事に感謝こそすれ、己を罰することはありえません」
ペトラもエルザの性格は知っている。
だから、彼女の不安が自分を想ってのことだという事も理解している。
馬鹿げた事を、とは思うが、それはけっして非難という意味のものではなく。
大切な部下であり、友人であるエルザに、そんなことを想って貰いたくはないという心からの言葉。
エルザの不安を打ち消し、そしてペトラが望む事をどう伝えたらいいのか。
決して素直とはいえない自分がそれをはっきりと表現するのは苦手だ、それくらいは理解している。
けれど、今日この時だけは。
「今を生きなさい、意味を見失うというのなら私が示します。その代わり、今までどおりに」
箱を包む飾りはそれを解かなければ中を見られない。
本当に伝えたいのは、そこにあるのに。
それを開くのを、相手が躊躇うというのなら。
「貴女達は私の傍にいなさい」
自分から、解いて見せればいい。
「……ペトラ」
最後の言葉にかすかな微笑みを乗せたペトラに、エルザはぼんやりと霞んだ視界を慌てて払った。
「うん……わかった。ありがとう」
赤い目で、それでも笑顔になったエルザに、ペトラは気付かれないよう心の内で安堵の溜息をついた。
「……そろそろ食べません? 私、お腹がすいてしまいましたわ」
やや間延びした口調で話に割り込んできたクラリーチェに、ペトラは少しむっとしてそちらを向いた。
「クラリス、わかってますの? 貴女も同じですのよ」
「わかっていますわ、だからこそ三人の親睦を深める為の食事を早く、と」
悪びれた様子もなくニコニコと笑うクラリーチェに、今度は大袈裟なまでに溜息をついてみせる。
けれど、ペトラもエルザもわかっている。
明るくはなったけれど晴れ切ってはいない雰囲気を、クラリーチェがやわらげてくれた事を。
「ごめんねクラリス、あはは。私もお腹すいちゃったよ」
「全くですわ。さあ、乾杯しましょう」
ずっとペトラの後で控えていたローサが手早く三人のグラスを用意する。
「アルコールは当然入ってませんわよ、クラリス」
「あらあら残念、ええ、私お酒は嫌いですしね」
「……二人とも」
クラリーチェとペトラは、今日の主役を顧みる。
エルザは今自分がここに居る事に、例えようもない喜びと幸せを感じていた。
「今日は本当に、ありがとう」
その言葉に、ペトラは満足げに頷きながら自分のグラスを掲げた。
「今日ここで、今日という日を迎えられた事に感謝を」
「生まれてきた貴女に感謝を」
「共に在れる今に感謝を」
『生まれし絆に祝福を』
「Buon Compleanno……!」
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某所に投下したエルザ誕生日SS、2009年度版。
じゃあ2010年度版は? と言われますとあるんですが、どのタイミングでうpしようかっていう。
まあそんな裏話はおいといて。さすがに物が古すぎて今更だとあとがきというより、恥ずかしさが先にたちますね。
特に書くことを考えず、イタリア語でのお誕生日おめでとうを最後に入れたい、と考えたらこんなのができてましたとさ。