Silent Party


夜、胸を叩くのは私の役目でした。

与えられた柔らかなぬくもり、けれどそれが私の胸を叩いてくれる事は無かったから。
だからせめて、彼女はよく眠れるようにとその柔らかな胸を叩いて。
でもいつしか眠っていたのは自分の方でした。

言葉を発さない彼女が、それで安らげたのかどうかは私に知る由もなく。
けれど例えそれがどんな形であれ、私に安らぎを与えてくれていた事は疑いようもなく。
私はいつしか彼女を通して、気づく事さえなかった願望を抱き。
求め、与え、そして与えられる事をただ一人で消化していたのかもしれません。
自然私は母となり、父となり、また彼女を母として、あるいは自分の代わりとしてみていたのかもしれません。

彼女が「彼女」であることさえ、私の夢でしかなかったんですけどね。
それでも彼女は確かに、あの時の私にとって……。


「――クラリス、どうかしたのかい?」
自分の机でぼうっと物思いに耽っていたクラリーチェは、その声にはっと我に返った。
僅かに視線を動かせば、親愛なる相方のエルザが心配げに自分を覗き込んでいる。
「いいえ、なんでもありませんの。少し考え事をしていただけですわ」
「そっか。邪魔だったかな?」
「そんな事ありませんわ、今日の任務の事を思い出していただけですから」
「ああ……あの親子の事かい?」
言って、エルザもそれを思い出したのかやんわりと微笑んだ。

小さな家で暮らす母子の元に訪れた魔族という名の危機。
魔族としては下位に属し、その力も強くない類の物だったが、それはあくまで魔族の中での話。
ただの人間である母親と幼い少女にはそれは充分な脅威だった。
ペトラからの命を受け直ちに急行した二人は速やかにそれを討伐し、家の近くに存在していた次元の歪みを封じてこの危機を消し去った。
安堵し、二人に感謝の意を述べた後お互いを強く抱き締める親子の姿は、思い出せば二人の心をふわりと温かくする。
「これでもう、あの親子は何も怖がらなくてすむね」
「ええ、よかったですわ」
任務を終えてから何度か繰り返したやり取り。
本当にお疲れ様、とエルザはクラリーチェにもう一度微笑んだ。
「お茶、飲むかい?」
クラリーチェに背を向けながらエルザは問い掛け、小さなテーブルに置いてあったティーセットを手に取る。
いつの間にお湯が用意されていたのか、気付けば部屋にうっすらと湯気が漂っていた。
「あらあら、いただきますわ」
手早く二人分のお茶を用意するエルザをクラリーチェはぼんやりと眺める。
特に意識しているわけではないのに、思考は再び親子の事……いや、一つの「記憶」に流れていた。

震える親子、決して離れないように互いを強く抱き締めあう。
怯えながらも母は我が子を覆うように抱き、そこには彼女を「護る」意思が見えた。
そして子供には母の他にもう一人、強く強く抱き締めている相手がいた。

「大切なものだったんだろうね、プレゼントか何かだったのかな」
「え?」
再び思考を遮ったエルザの言葉に、クラリーチェは僅かに驚きながら彼女を見た。
そんなクラリーチェの様子に気付いたふうもなく、エルザは暖かな湯気と良い香を漂わせるティーカップをクラリーチェに差し出す。
「あ、ありがとうございます」
一口お茶を啜り、クラリーチェは息をつく。
「クマのぬいぐるみ。あの子がずっと抱いてただろう?」
「……ええ」
まさにその事を考えていた最中だったから、上手く言葉が出てこない。
エルザは眼を細め、自分のカップに口をつけた。
「あのお母さんか……他の誰かからかはわからないけど、きっと大切な人からのプレゼントだったんだろうなあ、って」
「そうですわね……そんな感じがしましたわ」
クラリーチェの中で記憶が疼く。
ちくりとした感覚は痛いような、懐かしいような。
「私もああいうものをもらった事があるよ、ぬいぐるみじゃなかったけど、嬉しかったなあ」
「あら、何をもらったんですの?」
「小さなペンダントをね、緑色の石が凄く綺麗でさ。今でも箱にしまってあるよ」
言ってエルザは自分の机の上を指差す。
その示す先に視線をやれば、そこには小さな小箱が静かに佇んでいた。
「家族の事は……辛い事も思い出してしまうけど、でもやっぱり大切な思い出、かな」
「あらあら、あの小箱にはそんなものが入っていたんですね」
エルザの辛い過去には触れず、クラリーチェはただその綺麗な思い出に微笑む。
エルザはテーブルの上においてあったお菓子を二つ手に取ると、クラリーチェに一つ差し出した。
「クラリスは?」
「え?」
唐突に、問いの形で発せられた言葉にクラリスはきょとんとする。
「何か、お母さんからもらったものとか、ないのかい?」
「……」

問いを心の中で反芻すること数秒。
答えを探し始めたクラリーチェは黙する。

「…………クラリス?」

その問いに簡潔に答えるとするならば「ある」だ。
それなのに、それをすぐに返す事が出来ない。

「私の両親は魔界でもそれなりの地位の貴族で――」
思い出すだけでいいのに、なぜか言葉が口をついて出てきていた。
「忙しかったんでしょうね。あんまり、構ってもらえなかったんですよねえ」
いつも冗談を口にする時と同じような声色。
自分ではそれを出せたと思っているのに、エルザが硬直したのがわかった。
「ああ、でも誕生日にプレゼントをもらった事はあるんですよ?」
慌てる事なく、問いの答えを返す。
「あの子と同じですわ、ぬいぐるみを……私はウサギのぬいぐるみでしたけど」
その言葉に、ほんの少しエルザの緊張が解けたようだった。
「へえ……クラリスがぬいぐるみかあ」
「ええ、とても可愛くて。大事にしましたわ。毎日一緒に寝て……」

けれどそれ以外に。
鮮やかに思い出せる家族のぬくもりはあまりなかった。

「毎日その子の胸を叩いて、でも私がいつの間にか寝ちゃってました」

おどけたように言う言葉に引っかかりを感じたのか。
エルザの表情がまた少し強張ったように見えた。


――貴族であった両親はクラリーチェにあまり構えず、彼女の世話はいつでもお付の者がしていた。
それを両親が悪いと思っていたかはわからないし、今となってはどうでもい。
魔族としての生活、家族の存在など長い永い年月と、それなりに長くてより充実していた物質界での思い出に塗り潰され、いつしか思い出すこともなくなっていた。
ただ、クラリーチェは母親のぬくもりを覚えていない、父親も然り。
その事を"思い出し"、また心の奥がちくりと痛んだ。

当時は考えた事もなかったと思う。
幼い頃からやんちゃではあっても変に大人びていた彼女は、両親の忙しさをわかっていたから構ってもらえないことを不満に思った事もなかったと記憶している。
遊ぼうと思えばお付の者もいた、特に不自由はなかった。
けれど、ぬいぐるみをもらった時は確かに「嬉しかった」。

クマのぬいぐるみを抱く少女。
辛い事と同時に、大切な"家族の思い出"を記憶の箱にとどめているエルザ。
ふとその二人が、「羨ましい」と、思った気がした。
ちくちくと痛む胸の奥。
クラリーチェは困ったように眉を顰め、

「ああ、私……寂しかったのかもしれませんねぇ」

思い至った一つの結論を、思わず口にしていた。


「――え?」
エルザはクラリーチェの呟きにも似た言葉の意味が一瞬判らず、間の抜けた声を上げた。
その様子と自分が言った事に気付いたのか、クラリーチェはしかし慌てる風もなくいつものように微笑んだ。
「いえいえ、何でもありませんわ」
しかし耳に入った言葉は少しずつ脳に、心に浸透し、その意味を間を空けて理解させる。
「……」
明るく言うクラリーチェに返す言葉を見つけられず、エルザは思わず俯いた。
「……エルザ?」
その様子にさすがのクラリーチェも茶化すような言葉を続けられなかった。
沈黙が二人の後を通り過ぎ、重い空気に温くなりつつある湯気が揺らされる。
「……ごめん、クラリス」
間を空けてようやくエルザがそう言うと、クラリーチェはゆっくりと首を振った。
「どうして謝りますの?」
「私、無神経だ……最低だ」
「そんな事ありませんわ、だって私あんまり気にしてませんもの」
「嘘だ、それならどうして誤魔化そうとするんだい」
「……あらあら」
クラリーチェにとってその言葉はあながち嘘でもなかったが、いざ嘘だと言い切られると、心のどこかに引っかかってる何かがあるのも事実だった。
次に何を言い出しても謝罪の言葉しか出て着そうにないエルザに、クラリーチェはふぅ、と溜息をついた。
「ねぇ、エルザ?」
「……なんだい?」
「私には過去の家族の思い出はちょっとありませんし、家族がいた事すら忘れそうでしたわ、それは事実です」
淡々と諭すように語りだすクラリーチェに、エルザも顔を上げてそれを聞く。
「ですが、確実に嬉しかった、幸せだったという思い出はありますし、それを思い出させてくれたのはエルザ……あなたですよ?」
「……クラリス」
「数少ないからこそ大切な思い出はかけがえのない物なんですわ。それまで忘れてしまうのは、私も嫌ですもの」
カップを傍らに置き、やんわりとエルザの両頬を挟み込む。
近づく顔の距離に、エルザの顔がほんのりと赤みを帯びた。
「それに、今は私にもちゃーんと、"家族"がいますから」
「え?」
「ペトラや、ローサやノーラ、ここで私を慕ってくれるジュゼッパも、私にとっては大切な友達であり、家族ですのよ」
「……」
エルザは目を丸くしてクラリーチェの言葉に耳を傾ける。
挟み込まれた頬が少しずつ、温かくなっていく。
「それに、勿論」

ふわりと、エルザの鼻腔を柔らかな香が掠めた。
「貴女も、大切な友達で、家族ですから」
頬から離れた手は首の後に回り、クラリーチェの柔らかな髪や胸がエルザを包みこんだ。
「クラリス……」
「私は、幸せですわ。過去に捕らわれてる暇もない程に、幸せを感じすぎて忙しいんですの」
「そっか……」
エルザはほんの少しためらいながらも、その腕をゆるゆるとクラリーチェの背に回した。
ゆっくりと、しっかりと強く、その細い体を抱き締める。
「うん、私なんかといる事で君が幸せになれるなら、私は幾らでも傍にいるよ」
「あらあら、物凄い殺し文句ですのね」
「えっ!? そ、そんなつもりじゃ……」
思わぬ切替しに思わず離れようとしたエルザの体を、クラリーチェはしっかりと抱きとめて離さない。
エルザは思わず息を飲み硬直する。
「でも、私"なんか"は余計ですわ」
「あ、ご、ごめん……」
見えない表情にエルザは顔を赤らめながら頬を掻き、ゆっくりと視線を動かすと、
「クラリス」
「はい?」
返事と共に顔を上げたクラリーチェの頬に、そっと口付けた。
「…………あらあら」
思わず細い目を見開き、しかしすぐ零れんばかりの笑みを浮かべると、クラリーチェは擦り寄るようにエルザに抱きつきなおした。
「ええ、貴女は本当に……私にとって友達で、家族で……大切な大切な恋人ですわ」
「はっきり言われると、やっぱり照れるなあ……」
エルザは苦笑しながらクラリーチェの髪を何度か撫でると、その首に手を回す。
「それから」
「はいはい、なんですの?」
首の後ろにこそばゆさを覚えながら、クラリーチェはエルザを見上げる。
これ以上の幸せが他にあるだろうかというような表情をして。
「誕生日、おめでとう。これ、もらってくれるかな?」
「え?」
エルザのぬくもりが離れると同時に、胸元で僅かな重みが転がった。
「……」
そこには、深い深い海のような青をした雫型の石が、優しい光を湛えて揺れていた。
「これは……」
「そんなに大きくないけどね。もらってくれると嬉しい」
「……私、忘れていましたわ。そうですか……今日は」

壁にかけられたカレンダー。
そこにはいつの間に付けられたのか、小さく赤い丸が書き込まれていた。

「馬鹿だなあ……」
聖霊界では一人立ちし、誰かにいう事もなくなってから殆ど意識した事もないその日。
物質界に来てからはエルザと知り合い、確かに毎年祝われていた筈の、
「大切な家族の誕生日を、忘れるわけないよ」
それでも知らず意識する事を止めていた……或いは怖れていたのかもしれない誕生の日を、この相方はしっかりと、覚えてくれていた。
「ペンダントなんて、貴女の大切なものとおそろいですのね」
「そうだね、特に意識したわけじゃなかったけど……なんだか照れるな」
言葉の通り恥ずかしそうに笑うエルザにクラリーチェは嬉しそうに微笑み返す。
「……嬉しいですわ、ありがとうございます、エルザ」
「どういたしまして」
再び身を預けてきたクラリーチェを、エルザはしっかりと抱き締めた。

そういえば、とクラリーチェは思う。
自分の内にある数少ない家族の温もりとその思い出。
その最たるウサギのぬいぐるみも、そういえば誕生日に両親から与えられたものだった。
それが嬉しくて嬉しくて、そのぬいぐるみに友を重ね、母を重ね、いつしか自分を重ねて。

「……ねえ、エルザ?」
「なんだい?」
「もうちょっと、甘えてもよろしいかしら」
「うん?」

それ以降は、求める事が出来なくなった温もりを、自分が逆に与えていた。
不意にそれが思い出されて、遂には叶う事のなかった一つの願いが強く強く。

「今日は眠るまで……隣に居て、私の胸を叩いていてくれませんか?」
「…………お安い御用だよ」

求める言葉を口に出来た事が。
それを受容れてもらえた事があまりに嬉しくて。
「エルザ」
「ん?」
久しく感じなかった言いようのない想いに胸が満たされ、とどめ切れなくなって溢れ出す。
「大好きですわ」
それが見えないように、とクラリーチェは暫く顔を上げないまま、エルザの鼓動と温もりを感じ続けた。
「うん、私もだよ」
それに気付いているのかいないのか、エルザはただ微笑みながらクラリーチェの頭を抱き、
囁くように言葉を紡いだ。


夜は静かに、月は柔らかく二人の部屋を包み込む。
やがて部屋の明かりが消えて、優しい鼓動が心と体に静かに染み渡るまで。
クラリーチェはエルザの手と青い雫を握り締めていた――






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某所に投下したクラリス誕生日SS、2009年度版。
こちらも2010年度版はあるんですが、やっぱりどのタイミングでうpしようかっていう。
いずれ時期を見てエルザ誕生日SSと共にうpしたいものです。
この上なく余談ですが、当時某御方の描かれたクラリス誕生日イラストの一部と、このSSの一部が見事にシンクロニシティを起こし、その奇跡にびびったもんでした。
ねぇ、うさぎのぬいぐるみ……。